(終章)脱出

(終章)脱出
 
アンガスは小型ゴムボートのカプセルが
着水した事を確認しようと窓を覗いた。
窓からは海に着水したカプセルが
自動的に膨らみ、救命ボートに変わっているのが見えた。
格納庫を出たアンガスは慌ただしく
海に着水し救命ボートが着水した場所に向かった。
もう、うんざりだ!ここからでてやる!
ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう!
アンガスは網目状の紫色の無数の触手に
覆い尽されていた船内を泣きながら駆け抜けた。
救命ボートが着水した海が見える場所に辿りつくと直ぐに乗り込んだ。
その直後、獣の様な甲高い声が聞えた。
「キイイイン!キシャアアアアッ!」
「ふざけんな!もう!うんざりなんだよ!」
アンガスはまだ姿の見えないマーメイドに向かって苛立ち怒鳴りつけた。
彼は救命ボートのロープをサバイバルナイフで切った。
生き残った自分と死んだ4人が
乗っていた漁船と救命ボートは無事離脱した。
アンガスは万が一に備え、マグナムの弾をリボルバーマグナムに装填した。
更に右手でサバイバルナイフを
しっかりと構え、いつでも戦えるようにした。
だが、マーメイドは自分が侵略したあの船から出て来る事は無かった。
何故だか分らないが恐らく彼らを吸収してもう満腹なのだろう。
アンガスの脳裏に凄惨な死に方をした挙句にマーメイドの体内に
吸収された4人の友人達の悲惨な光景が焼き付いて離れなかった。
それから精神を極限にまですり減らし心身ともに疲れ果てたアンガスは
とうとう急檄に襲い掛かる抗えない程の眠気には勝てなかった。
彼は小型のゴムボートの上で胎児のように丸まった。
彼が静かに瞼を閉じると目の前が真っ暗になった。
やがて彼の耳にマーメイドの美しい歌声を微かに聞いた気がした。
マーメイドの美しい歌声を聞いている内に次第に心が安らかになった。
彼の意識は急檄に下へ、下へどんどん
エレベーターを下る様に落ちて行った。
 
それから1週間後。
アンガスは目を覚ましたと同時に白い蛍光灯の光で目が激しく眩んだ。
何度もパチパチと瞬きを繰り返した。
それから光に目が慣れ、改めて自分がいる部屋を見た。
自分は清潔な白いベッドの上に眠っていた。
周囲を見るとそこは白い壁と天井に覆われたとある病院の個室だった。
やがて一人の白衣を着た医師が入って来た。
「やあ、アンガス君」
医師があいさつするとアンガスもあいさつした。
「こんにちは。」
「私はドクター・モールス」
「ここは?」
医師は笑顔でこう答えた。
「ここは!ニューヨーク市内の総合病院だ!」
「助かったんだ……」
アンガスは安堵の表情を浮かべ、静かに泣き出した。
「そう、君は助かったのさ!一週間前に君はカリブ海
ど真ん中を漂っていた救命ボートから君が発見され救出された。
君はかなり精神的にも肉体的にも衰弱していた。
一週間も意識不明だったんだ。」
「先生……信じてくれませんか?」
アンガスはか細い声でこう言った。
「私と友人の4人はこのカリブ海の何処かに
存在する人魚が住む幻の暗黒環礁を求めて
船の舵を取り、広大なカリブ海を10時間以上かけて航行していたんです。
それで!見つけたんです!幻の暗黒環礁を!
そしてマーメイドを捕まえたんです!
でも!マーメイドの正体はリバイアサンだったんです!そう!
旧約聖書に登場する海の怪物で7つの大罪の嫉妬を司る悪魔で……。」
あのマーメイドはそのリバイアサンの生き残りだと思うんですよ!
それで友人の4人は!そのマーメイドに人形の様に弄ばれて!
食い殺されました!
私は命からがらゴムボートで船から脱出したんです!」
アンガスはフフフッと笑った。
「まさか?信じてくれませんよね?」
「成程、やはり幻の暗黒環礁は存在していたのか?」
「はい!しかし残念ですが!上陸はしていません!」
アンガスは茶色い瞳でドクター・モールスの顔を観察した。
「それが賢明だろう。大昔、
あの幻の暗黒環礁に上陸した者がいたらしい。」
ドクター・モールスは近くにあったパイプ椅子に座り、そう話した。
「それであの幻の暗黒環礁には?」
「知らない方がいい!世の中には知らない方が善い事もある!
君は今回の事はかなり身に染みた筈だ!これ以上!知るべきじゃない!」
ドクター・モールスは首を左右に振った。
アンガスが幾ら尋ねても暗黒環礁がどのような
場所だったのか頑なに真実を語るのを拒み続けた。
「それと君が手に入れた分厚いマーメイドの鱗。
君の友人が発見した新種の虫?どうやら寄生虫らしいが……。
現在!それらはとある大学の地下倉庫に厳重に保存してある。
それから数名の生物学者の博士達、数名の大学生等が調べたところ。
緑色に輝く分厚いマーメイドの鱗から
人間のDNAと魚のDNAが検出されたそうだ。
また例の新種の寄生虫もこれから寄生虫学者を
数名集めて調査を始めるらしい。 
それまであの新種の寄生虫もマーメイドの鱗も
厳重に保管され、管理されている。
もう!君のような一般人の目に絶対に触れない様にしなければならない!
また新聞や科学雑誌に載る事は決して無いだろうし!
アメリカ政府が許さないだろう!
そして!UMA(未確認生物)だったマーメイドの存在が生物学的に
実証される事も今後も無い!何故なのか?それは今、君が聞く事じゃない!
今!君が聞くべき問題は!君の体調だ!そうだろ?」
「はい!私の体調は今後もちゃんと良くなるんですか?」
「今の君の精神は少し衰弱しているが心配ないよ!
あとは栄養が少し不足しているから一週間位は栄養剤の点滴を受けて貰う。
カウセリングを受ければ直ぐに元気になれる!君は酷い悪夢を見ていた!
ただそれだけだ!心身共に直ぐに健康になって退院出来るよ!」
ドクター・モールスはニッコリと笑ったので
アンガスもぎこちなく笑って見せた。
そしてドクター・モールスは「じゃあね」と手を振り、病室を去った。        
一人だけベッドの上に残されたアンガスは
しばらく天井の蛍光灯を見つめ続けた。
しかし彼の脳裏には緑色に輝く分厚いマーメイドの鱗を思い出していた。
そして超小型の電子顕微鏡で見たあの奇妙な虫。いや寄生虫
小さな竜の頭の形をした頭部に細長い身体は緑色に輝く鱗に覆われていて。
下半身には無数のイカに似た触手が10本生えていたのだ。
さらに海から引き揚げた魚介類を保管する部屋内の網目状の
紫色の無数の触手に覆い尽された床にびっしりとこびりついた
大量のピンク色に輝く粘液に覆われた卵塊が鮮明に脳裏に蘇った。
更にマーメイドの体内に吸収されたフランク、
ジミー、セバスチャン、マルク。
俺の仲間達はまだ彼女の体内でまだ自我や意識が残っているのだろうか?
だとしたら?彼らは彼女の体内で永遠に苦しみ続けるのだろうか?
多分、俺の仲間達を襲ったマーメイドは
他の人間のDNAや脳機能を取り込んで。
取り込んだ人間の知識や能力を吸収する能力があるのだろうか?
あと彼女が産んだ大量のピンク色に輝く粘液に
覆われた卵塊から孵化した子供達は?
セバスチャンと彼女の子供達か?それとも?
多様な生物のDNAを取り込んだ子供達だろうか?
しかしそれらの真実は暗黒の海の底に葬られ、全て分からずじまいだった。
アンガスはうだうだ考えるのは無駄だと諦め、直ぐに考えるのを止めた。
続けてドクター・モールスが言った言葉を頭の中で反芻した。
「知らない方がいい!世の中には知らない方が善い事もある!
君は今回の事はかなり身に染みた筈だ!これ以上!知るべきじゃない!」
「そうだ……この世には知らない方が善い事もあるんだ……」
多くの人々は地球上で起こっている出来事の
真実を全て知る事が正しいと思っている。
しかし地球上で起こっている出来事の真実を
全て知る事が果たして正しいのだろうか?
真実は見て見ぬふりも出来るし、
見て見ぬ振りをしないという選択も可能だ。
アンガスはあの緑色に輝く分厚いマーメイドの鱗や
あの奇妙な寄生虫の事を自分の記憶から完全に抹消する事を心に誓った。
もちろんあの幻の暗黒環礁の事も綺麗さっぱり忘れる事にした。
そう!見て見ぬふりをするのだ。そうしている限り、
僕は安全地帯にいられるのだから。
 
(マーメイド・完結)